生を嗜み、死に想う

二十七才の私は、十五才の頃の私より、少しも賢くない。私ばっかり、ずっと、同じ場所にいる。

言の葉の庭という映画が好きだ。苦しい言葉を丁寧に掬って一つずつ並べているような心地良さがある。人間の暗い部分をとても繊細に紡いでいる。

私はこの年で二十二になるが、十五才の頃の私より賢いといえるだろうか。
社会に出て私は、大人を知った。愛を知った。汚さを知った。苦しみを隠すことを覚えた。悲しさを紛らわすことさえ出来るようになってしまった。賢さ、とはなんだろうか。

音楽というのは私の苦しみを助長する。しかし私は音楽に感情を載せている限り失ってしまえば感情を失ってしまうことと変わらない。私にとって音楽というのはそれだけ私を突き動かすものなのであろう。音楽に助けられ、音楽に苦しみながら生きている。

精一杯生きる、というのは何だろうか。

あるアーティストの曲の歌詞に「今ある命を精一杯生きなさいなんて綺麗事だな、」というものがある。精一杯生きる、というのは人によって考え方が違うし、生きることの価値も勿論違う。私は今この生を、精一杯生きている。私の中の私は精一杯だと、叫んでいる。しかし、この精一杯が尽きる瞬間というのはいつだろう。私が精一杯生を尽くせば、死に向かって良いのだろうか。

私は死ぬことを正しくないとは思わない。死にたい、と思うことだって人間の欲である。願望を否定する権利など誰にもない。私は私の生を精一杯尽くせば、死を想うことも良いのではないかと思っている。

こんなことを言っているが、私はまだ生を堪能するつもりで、まだまだやり残したことが沢山ある。私は生を嗜んでいる途中である、誰にも邪魔はされたくないし、例えば貴方が大好物なスイーツを食べている時に横で一口!なんて奪われたら嫌だろう、それと同じ感覚で、感情で。

私はまだ貴方と、生きるよ