それなりに


少しずつ、共有していたものが消えていく悲しみを、毎日のみこんでいるけれど、私はそれなりに元気でやっています。まだ夜はなかなか眠れません。でも人生は大抵、それなりに、でもいいのかもしれないと思いました。



私の中で、人生最大の終着点に立ち、眠れなくなった日から2週間が経ちました。
初めは眠ることどころか、起きているだけで悲しみが溢れてしまうので、泣き止むことができず。ストレスで声も出なくなり、音楽さえももう出来ないんだ、とその居場所からも離れようとしていました。
愛が消えていないまま、人生を共にすると思っていた私の中の最期の人と、別の道に進むことを決めるのはやっぱり辛くて、突然のどうにもならない結末でした。
どう考えても幸せで、忘れられない日常がずっと脳裏にこびりついて離れてくれなくて、貴方との幸せを諦めることも出来ず、毎日また一緒になれる、いつか、でもそれはいつなのか、なんてそんなことを考えてずっと苦しいだけの毎日でした。

音楽も、生きることも、辛くて全部手放してしまおうとした時に、私の周りの人は共通して、"しんどいなら逃げてもいいし好きにしたらいいし貴方の意思に口出しはしないけど、まだ会いたいよ"とか、"一緒にやりたいこと沢山あるし"って言ってくれるような人でした。
友人に、軽く腹を見せられない私なもので、こんな時にこんなに救いの言葉を他人にかけてくれる人が存在するのか、と温かくなって、その温もりの中でどうにかこうにか、生きながらえています。

"死にたい"と思うことが甘えだと思う人間がこの世に存在することは、別におかしい事だとは思いません。勿論この感情は経験した人にしか分からないことだろうし、そんな簡単に知って欲しい、経験して欲しいとも思いません。これだけ辛いことを知っているんだもの。
ただ、"死にたい"と思っている人間に対して、甘えるな、ちゃんとしろ、皆してるから。という言葉を投げるというのはあまりにも無責任で、無知で、理解の乏しい人間であると私は思います。
いいんです。思うことは。ただそれを他人に投げるというのは、暴力に過ぎず、理解をしようとする気がないのに、他人にどうこう言う筋合いは無い。


そんなことは置いておいても、"死にたい"という感情が生まれる私の起点は、"死にたい"か、"頑張りたい"の二極化してしまっていることからきていると思うんです。こういう感情が生まれる、所謂"鬱"の人間は、割と極端に考えがちで、0か100、なんですよね。私はかなりそうで、まぁ、それくらいでいいか、とか、なんとかなるかも、という思考を取り繕って生活することが出来ないんです。う〜ん、難しいよね。


でも私の今の感情は、その"間"の部分にあるんです。これは私には本当に珍しいし、乗り越えていけば完璧にたどり着けるのかな、と少し期待なんてしています。
生きることなんて多少なりとも頑張らなきゃ生活って出来ませんからね。でも、"それなりに"頑張る、でもいいって思うんです。最近はね。これはすごく、気づきだし、成長かも。
最初に思っていた、"またいつか一緒になれる"という確実な期待が胸をいっぱいに締め付けていたけれど、今は、

生きていればいつかまたどこかで巡り合わせられるかも。本当に運命なら、必然なら。その時また、貴方に惹かれて、またずっと思い出したい程綺麗な記憶が残っていたら。私が今よりもっと素敵な人間になれていたら。また一緒になれるのかもね。

くらいの気持ちで、いつかまたくるその時を、なんとなく待ってみるのも良いのかもしれない、とぼんやりと思えるようになってきています。
今はその日がいつ来るかなんて分からないし、本当に来るのかも分からないし、考えすぎても苦しいだけなのかもしれない。なんて思っています。
(本当はずっと考えていたいけどね!!)

とりあえず、今の時間をなんとなく、楽しく、思うままに過ごしてみます。それなりに、元気に。それなりに、頑張ってみます。
そんな日々が続く先でまた、貴方に出会えたら嬉しいです。