拘りと傷を、生々しく


12月になってしまい、終日柄ワンマン美術展まで余すところ10日?11日?となりました。チケットもかなり少なくなり沢山のご来場が予定されていること本当に嬉しさと、ドキドキでいっぱいです。当日流す映像を作っていて思ったんですが、今回のワンマン、いろんな展示やグッズ、作品があるのに、ほとんど手作りで、外注がないんです。デザインを任せるだとか、素材を決めたりするのだとか、全部がセルフプロデュースなんです。間違いなく、「やり過ぎ」です。

ワンマンやると決めてからこの日まで、恐らく1年くらいがたっています。きっかけはライブハウスのkirunaさんが昨年の9月頃、終日柄、うちでワンマンやらない?って言ってくれたのがきっかけです。kiruna、本当に大好きなんです私、人も、場所も、これはお世辞抜きで。とても寄り添ってくれるし、やりたい事全部やって欲しいし、手伝うから!って言ってくれるんです。信じられますか.....。

私、ライブハウスってちょっと苦手で。アーティストの生の音が聴ける空間は最高なんですけど、少し勢いがありすぎたり、人の波が怖かったり、ライブハウスに弾き語り出演1人で行くのが怖いのも、弾き語りを休止している理由なんですけどね。でもkirunaは本当に暖かいです。ひとももちろんなんだけど、場所もとても拘っていたり、この間教えて頂いたんですけど、ライブハウス場内に髪が1枚も壁に貼ってないんです。それも拘りなんだって、すごい。入口にはバーカンがあるんだけどとってもオシャレ、インテリアまで。これが欲しいあれが欲しい、これを買った、なんて、バイトさん?かな?と担当してくださってる山本さんが話していたのを聞いたんだけど、とても和んだし楽しかったな....。kirunaでワンマンが出来ること、本当に嬉しいです。

で、話が戻って、今回このワンマン美術展にはいろんな拘り、いろんな作品が入ってます。それぞれメンバーにもやることが沢山あって、皆ひいひい言ってました。多分ここ数ヶ月はずっと皆顔が険しいor疲れているの日々だった(今も)気がします。終日柄って、のんびりしている時はのんびりしているんですけど、ミーティングをするとめちゃくちゃ熱量があって、全員が意見をぶつけ合うって感じなんですね。やっぱり拘りがあるからこそここは譲れない!みたいな。この環境が本当に私は恵まれてるなと思います。だって、意見を言えない環境だってあるじゃないですか。私は、私がこの方が良くない?と言ったことに、折れて欲しくないんです。自分が良いと思ったことで、私を説得させて欲しいんです。それで私が納得してそちらに魅力を感じてしまえばそちらになるし、相手がこちらに魅力を感じれば私の意見になるし。そういう環境である事が素晴らしいことだと思います。

人間ってそう簡単には分かり合えないです、私は特に。人には人のキャパがあり、しんどいと思うポイントも違います。私がしんどくてそのまま通過できないポイントを、他の人は通過できてしまったり、私が傷つかないと思っても、相手が傷ついてしまう事だったり、それが思い過ごしだったり、言葉にせず勘違いだったり、いろんなすれ違いがあります。でも人間って、バンドって、支え合って、寄り添いあっていかないと、先に進まないな、って今回のワンマン制作を通してすごく感じました。バンドだって生き物だからね。人間だから。楽しいだけでこの先がずっとある訳じゃないし、求められるだけで、簡単に続けていけるものでもないです。人間同士が生々しく擦れあって、傷つきあって、高めあって、支え合って、この先の未来を見据えながら止まるところと、走るところを決めていくものなのだと思います。

長くなってしまいましたが、終日柄をいつも応援してくださっている皆さん、私をいつも見てくださっている皆さん、本当にありがとう。その感謝を、ワンマン美術展で沢山、伝えられたらいいなと思います。待ってるね。

想いを綴りたい


うーんなんか泣きそう
今はね、東京に向かう新幹線の中でこれを書いてるの。
実は明日、私のバンドのツーマンライブが東京であって。初めての東京ライブなのね。

終日柄が始まって丁度1年。実際に活動(下準備)を始めたのは1年半くらい前なんだけど、やっとここまで来たのか、、、という感じ。
しかもただ東京でライブするだけじゃなくて、50名もの人が予約をしてくれてる。幸せだなぁ。

自分の名前とかバンドの名前を検索すると楽しみにしてくれている人が沢山いて。愛してくれてんなぁ、、、としみじみ。感動です。

私音楽を始めたのは2歳?の頃で、ここまでいろんな音楽をやってきたけど、ここまで感動したことないな。この感動は多分、この努力があったからだろうな、と思う。あ〜こりゃ本当に泣いちゃうな、笑

私歌うのは好きだけど、バンドの中で歌うの結構苦手で、最初の方とかスタジオの録音もライブの録音も聞けなかったの。酷すぎて。自分の声が嫌すぎて。なんだろう、弾き語りとバンドって声の出し方全然違うくて、バンドの時は声を張るから声を操りにくくて苦戦して自分が求めてる声色を出せてなかったのね、だからすっごい悩んだ、もうこれは本当に。バンドが有名になれないのは自分の歌声のせいだってずっと思ってた。ライブハウスで、世界観が出し切れてないとか、期待してたぶんちょっとイメージと違ったとか、いろんな意見を貰って、すっごく悔しかった。私がレコーディングの時に出せてる声をライブでは出せないから。レコーディングって声はらなくていいからね。本当に悔しいし本当に辛かったしもう辞めちゃおうかなやっぱり向いてないなってすっごい思った。
その中でもさ、どんどんファンがついて、どんどん皆に応援してもらえるようになって、やっぱり頑張りたいってなったりさ、えもち(バンドのギター)が、終日柄の魅力は、やっぱりあいちゃんの声だよね、変幻自在だし、強いよなぁ、って何回も何回も言ってくれてたの。私は、レコーディングとか、音源とかで出している透き通った綺麗な歌声だけじゃなくて、ライブではかっこいい声出せるんだぞって思って。じゃあ中途半端に透き通った綺麗な歌声を追い求めなくても、ライブハウスでは、そこでしか聞けないカッコ良さを誇張してもいいじゃんって思ってさ!これは本当に私の気持ちをすごく変えたなと思う。今でもまだね、納得は出来ないよ私自分の歌声に。ここはもっとこうしたい、、、みたいなのある。でもさ、何が変わったって、録音が聴けるようになったのよ!!!これ本当に大きいよ。録音、何回も何回も聴いちゃう。悔しいところあっても何回も聞いてここはもっとこう歌おうとか、そういうの、出来るようになったの。感動モノよ、ほんとね、、、。歌声も勿論だけどギターの弾き方も、メンバーそれぞれの弾き方叩き方もすごく変わったし皆で成長できた。意見が食い違っちゃうこともあるし、思い通りに行かないことだってあるし悔しい思いすることだって沢山ある。だけど、こうやってちゃんと努力が分かりやすく音に出て、成長出来ているのは嬉しい。

明日はついに東京ライブ。
新しくなった終日柄を沢山の人に見てもらえる最高の日。とっても楽しみだけど、もう既にとっても緊張してる。あぁ〜明日終わったら暫く余韻だろうなぁ、、なんて言ってるけど7月に2本、8、9、10月にも1本ずつ既にライブ決まってるの。弾き語りは6/29と7/17があるのよ。まだまだ止まらないよ〜〜〜〜行ける所まで行っちゃうよ〜
頑張るね、見ててね

空白の


案外容易かった。
思い続けていたあの多くの気持ちや、不安や、同空間にいた際の居心地の悪さ、全てを一瞬で軽いものにしてしまうくらいきっと、そんなふうに思われた、そんな気がする。

人には見えない人の気持ちがあり、苦労も悲嘆も何も伝わらないあの空間で溢れた涙は多分、言葉の何倍も、

あの時話せた言葉流した涙が、きっと私の全てであり、伝えたかったことであり、私のこの何年も過ごしてきた日々を、過程を。やっと報われたみたいな、なんというか、伝わった、みたいなそんな気持ちがあったのは、ただその流れに任せた勢いに合わせたみたいなそんなものではない。

繕って言った交わしたかっただけという言葉は偽りで、重ねた思いは様々な後悔と、涙と、私の人生の苦しみを撫でた。それがただ一瞬でも。それがただ終わりまで為されなくても。だから私は、きっとこれで終わりなのだと思った。いや、これが終わりなのだ、と思った。私たちの、私の、適切な終わりなのだ。正解なのだ。

人の大切な想いを壊してはいけない。そんな一瞬で。でも私はその一瞬に意味を込めた。それが例え伝わっていなくても、私の節目には相応しかったと思いたい。

疑繕gizen偽善

2nd EP「疑繕」-gizen-
そして、i・dentity MV
聴いて、見てくれたかな、

今回は、新曲のi・dentityと、私、淡甘が弾き語りでずっと演奏していた週刊誌が入った2曲のEP。“疑い”と“繕い”、そして“偽り”と“善行”。そんなEPになっています。

i・dentity
自我、同一性、素性、本性、正体。
“私”の中にある裏、表、どちらが私なのか、あるいはどちらも私なのか。
この曲は、同一人物の中にある二つの人格が本来の自分を奪い合う話。

週刊誌
記者が犯罪者を追求しすぎてその人が死んでしまったら、SNSで誹謗中傷した人を叩いてその人が亡くなってしまったら。善だと思って成したその行動が、悪になってしまうこともある。正義は、時に、人を傷つける。そんな話。

i・dentity mv
撮影監督、演出 淡甘
撮影、編集 e:宇宙旅行
撮影、ロゴ、合成編集 暮方薄明
off movie camera、合成編集 深海ノ空

実際にこの2nd EPの制作が始まったのは確か2021年の年末頃。i・dentityのdemoを作ったのが始まり。1st mini albumは綺麗で、1st EPが爽やかときたので、2nd EPで強く、かっこよくに至った。よく、ライブハウスで、系統は定めないの?今から定めるの?なんて聞かれることがある。それは良さでもあり悪いところに見えることもあるのだろうね。私の歌声は、音色が3つほどある。可愛い、美しい、かっこいいを歌詞の表情ごとに使い分けている。まだ尖りたいのかな?とも言われる。それは、なんだろう、まだ、ではなく、ずっと、なのだけど。
私の音楽は小説であり、ライブは映画化である。一つ一つに物語があり、起承転結があり、儚くも、強くも、悲しくも、心地よくもある。だから大きく揺れがあるのだが、それを理解するにはもっともっと終日柄を知ってもらわねば、となるね。
1月は依頼の撮影をしていたので、2月のレコーディングから始まりmvなんて2/24、28に行った。2/27はバトルデエッグの決勝だったので、28は死にかけで撮影。大変だったなぁ〜、、。詰め詰めで予定を立て、3/9を目標にずっと動いていたから、1週間弱で皆で完成させたね。特に私とえもちは今日の今日、ギリギリまで編集しててライブでボロボロの身体を引きずりながら頑張りました💮
疲れたけどこんなに充実している時間は他にない。とてもいい時間を、いい日々を過ごしている。この1、2ヶ月、バンドメンバーと顔を合わせすぎてもはや家族。楽しい。
まだまだ私たちには課題がたくさんあるし、やりたいことも沢山ある。嬉しいお知らせもたくさんあるし、新たな挑戦も決まってる。2022年。去年よりもっと終日柄の年になります。よろしくね。

文藝音楽

音楽について熱く語ったレポートを書いた。久しぶりにとてもいい文章を書けたと思うので共有したい。

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 私は”音楽”という一種の芸術の中に、様々な情景を思い浮かべる。たった数分の、たった数秒のあの時間に多くの言葉、メッセージ、情景が含まれ、映画の様な一つの作品として、その”音楽”を堪能する。その中でも、映画的な描写を見えやすくする「標題音楽」には、私の様な音楽の聴き方をする人間には、とても魅力的に感じるのである。文学的で、表情が見える程に感情的で、劇的な作品であるだろう。
 その中でも私が取り上げたいのはモダニズムとして活躍したモーリス・ラヴェルの音楽である。ラヴェルは、印象派の中にありながらも、ドビュッシーと同じく、”印象派”と呼ばれることを否定していた。モダニズムとして活躍する彼は、以前の様な古代の音楽用法を取り入れるなどではなく、西洋音楽に基づいて前の時代にあったこと否定し、新しい音楽を作り出すというネガティブ思考な作風であった。モダニズムバロック新古典主義、ジャズの要素が取り入れられ、細心の注意を払い、精巧に行われているオーケストレーションの達人である。ムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストレーション編曲も行っている。ドビュッシーと異なる点は、ドビュッシーが様々な音色を重ねていくのに対して、ラヴェルは思いついた素材をそのまま使うのではなく、古典的な形式の中で音の響きを追求していた。モダニズムとして現代的で、流行にふさわしい中でも最新のものを創造するという姿勢、標題音楽を作っていることや、劇的な作品を作ること、反復技法を取り入れることなど、私自身の作品の作り方、考え方に似ている部分が多くあり、とても興味を抱いた。
 私は普段、音楽活動をしており、アートバンドとして、「終日柄」というクリエイティブチームを組んでいる。それはただ音楽をするだけではなく、多くの芸術分野を取り込んで幅広く活動する。私はその中でも、主に音楽と映像を担当している。私の作る音楽は電車の中や部屋の空気、雨と共に落ち込んでいく気分、溜息。刺激的ではなく人間的で、人肌みたいに柔らかくて暖かい。そんな弱酸性音楽を創っている。私は、ジャンルに囚われず、流行の中でも新しいジャンルであり、目新しさを取り入れている。その音楽にはストーリー性があり、一つの小説をいくつも紡いでアルバムにしたり、1つのEPに入っている3つの曲の中に出てくる主人公たちに関わりがあったり等、小説的、文学的要素を含む、「標題音楽」に当てはまるのである。また、同じコードを反復して使うことによってメロディの幅を広げ、展開するなど、ラヴェルの音楽に対する考え方や、取り組み方、作風が私自身の音楽に対する姿勢に大きく似ているのだ。
 ラヴェルの音楽の中で私が特に取り上げたいのは、ラヴェル標題音楽に分類される「夜のガスパール」である。この音楽にはかなり驚かされた。3曲で構成されるこの作品にはそれぞれストーリーがあり、それを彷彿とさせるメロディ、情景が思い浮かぶ。実際にあるそれぞれの詩を読みながらこの曲たちを聴くとより一層想像できる。実際に何か映画を見ている様な感覚。映画のサウンドトラックを聴いている様な。流れてくるメロディによって感情までが手にとるようにわかる。素晴らしい作品であり、私が目指している音楽、芸術作品そのものだと思った。この3曲にはそれぞれ主人公となる妖精がいる。第1曲「オンディーヌ」。人間の男に恋をしてしまった妖精オンディーヌが愛の告白を拒まれ、その後の彼女の叫び、情緒の揺らぎ、全てを表している。第2曲「絞首台」。変ホの音で表されている鐘の音に、混ざりながら聴こえてくる様々なコードやメロディが、その場で聴こえる環境音の様に、悲愴のなかに歩いている主人公の耳に入ってくる音を聴いている様な。第3曲「スカルボ」。部屋の中を駆け巡る妖精の様子を表すかの様に早く、細かく、複雑なアルペジオやメロディで出来ている。ラヴェルは巧みなオーケストラ編曲をするが、この「夜のガスパール」には管弦楽版がない。本人もそうだが、この音たちを聴いていて、さらに詩を読めば、オーケストラ的な響きの想像は容易い。実際にラヴェル管弦楽編曲を聴きたかったな、と惜しく思う。しかしピアノだからこその妖精の繊細な動きや、感情までも伝わりやすかったのかもしれない。
 話は少し逸れて私のラヴェルに対する熱い想いを多く綴ってしまっていたが、とにかく私が伝えたいのは、ラヴェルの音楽性にとても惹かれるという話だ。ラヴェルの楽曲にはもちろん標題音楽だけではなく絶対音楽に分類される作品もある。それもまた魅力であろう。ラヴェルの音楽に対する姿勢が私の目指すものそのものである為、大きく尊敬の念を抱いている。ラヴェルの音楽には繊細さがある、とても丁寧で、直感で作られている様な感覚を抱かない。意図してこの音が作られている、使われている、という構造、構成が分かる。いや、こんなたやすく”わかる”と口にしてしまってはいけないほど考えられているだろうけれど、丁寧にはめこまれたパズルの様に音たちが繊細に佇んでいる。その考え抜かれた音たちに、響きに、私は魅了されている。彼の、文学的で、感情的な、劇的な音楽を作る姿勢に習って、私もその様な音楽を紡ぎたいと思う。


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音楽と記憶


私の記憶の全ては、音楽によって思い起こされる。

生まれてこのかた、音楽ばかりしてきたので、嬉しい楽しい記憶も、苦しい悲しい記憶も、全て音楽に関与してしまっている。

普段あまり音楽を聞かないが、電車に揺られながらシャッフルで聴いた懐かしい曲。貴方と一緒に聞いた記憶、貴方が歌っていた記憶、貴方と聴きに行った記憶、貴方が好きだったから好きになった記憶。

私の音楽は愛で満たされていた。
淡い、甘い、そんな記憶ばかりが呼び起こされる。私にとって音楽とは、感情である。感情をのせるも、感情を読み取るも、感情を感じるも。そんな音楽に私は、記憶を閉じ込めようと思った。その音楽だけに大切にしまっておこうと思った。

2021年、大切な人と、お互いが好きのままお別れを決めた。一緒になって4年、いや、一緒にいた時間はもっと長くなるが、苦しいことも楽しいことも、全てが私の大切な記憶で、消したくないと思った。

2022年1月30日。私は22歳を迎える。その日に、その記憶を大切に、綺麗にしまっておく為に。


2022.1.30 release
淡甘 2nd EP 「Ivy」
1、薄夢
2、seikatsu
3、泡と追憶

堕ちる、

堕ちる、というのはどういうことだろうか。なんとなく、落ちぶれる、格が下がる、などそんな意味を連想するのではないだろうか。

私は私自身が、堕ちてしまったな、と思う瞬間がある。昔に比べて、18を過ぎてから「大人」というものを知りたくもないのに知ってしまい、汚れた、穢れた、ヘラヘラ笑って過ごすなんて、純粋さを失った、無垢でありたかった。なんてそんなことを思う。しかし、それを「堕ちる」と思っているのは私だけなのかもしれない。
友人に自分の最近の話をして「貴方は堕ちてないよ、自分をしっかり分かっていて持っているから大丈夫」というような事を言われた。

それからいろいろと考えた。

私にとって堕ちた、と思っていた事柄は、私を私として認識する為、私を私としている為に穢れた部分を洗い流すために自分の言葉で戒めていたのではないか。私はこうなってはいけない、と今までしばりつけていたものに少しでも足を踏み入れてしまうと、私は汚れた、と思っていた。しかしそれは、そうではなく、その汚れた部分を自覚することによって、まだ、正しく、清く、ありたかったのである。

私はまだ私を持っている。私が私であるために、私の汚れを少しずつ自覚しながら私を戒めている。自分の全てを愛する必要などないのだ。愛はあるのだから、無理にそれを押し付ける必要はなかった。これはいけない、と思うことは愛を持って罰せればいいし、これは素敵だと思うところは愛して大切にすればいい。堕ちたから、などと自分の人生を全て諦めてしまってはいない。私はまだ私であり続けることが出来るのだ。

よかった、今日も私は私で在られる。